シリーズ中でも、この作品はとくに面白かった。
ミステリー仕立てではあるのだけれど、それは導入にすぎず、本当の謎と主題は、ミステリーの部分よりも更に奥深くに隠されている。
中心となっているテーマは認識論の話しで、「人間は、定義をすることによって世界を作っている。定義をしなければ何も存在しないのと同じ」といった内容だった。
この話題をめぐる、犀川と天王寺博士の対話もよかったし、犀川が萩原刑事に対して尋ねた「何故、鏡に映った像は、左右は逆になるのに上下は逆にならないか」という問いに対する説明もとても面白かった。
この小説の副題は「MATHEMATICAL GOODBYE」で、実際には、この副題こそが大きな意味を持っているのだと、後から気付かされる。
まだ理解しきれなかった部分はいろいろと残っているのだけれど、かなり完成度の高い構成だったと思う。
【名言】
「一番、下品な格言って知ってる?」
「働かざるもの食うべからず、ですね?」萌絵は即答する。
「そうだ」犀川はにっこりと頷いた。彼は機嫌が良さそうだ。「いやらしい、卑屈な言葉だよね・・僕の一番嫌いな言葉だ。もともとは、もっと高尚な意味だったんだよ」
「え?どんな?」
「一日作(な)さざれば、一日食(くら)わず」
「それ、同じじゃありませんか?」
「違うね。これも集合論だ。ド・モルガンの法則かな」(p.30)
「人類の文明は僅かに数千年だ。史上最大のトリックとは何かな?」
博士の問いに、誰も答えない。
「これで、今夜はお別れだ。また、明晩、会おう」スピーカから声が響く。
人類史上最大のトリック・・?
(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)
と犀川は思った。(p.86)
「ふうん。理想的な父親じゃないか」犀川は感想を述べた。
もし、教育というものが概念として存在するとすれば、たぶん、片山基生が和樹に与えたものが、それだろう、と犀川は理解したので、理想的だと表現したのである。人間は自分の生き様を見せること以外に、他人に教えることなど、何もないのだ。(p.193)
「私は、妻を三十年前に亡くしたが、当時の私は、妻に好かれたかった。それが、私の最も弱い意志だった。人に好かれたいと思う感情が、通常、その人間の内部の思考領域を限定する。その感情こそが自由を奪うのだ。私が望む意思は、もっと強く自由なもの。それは、自分自身の中の無限。思考の無限だ。妻が死んで三十年間、私は、もう一度人生を楽しんだ。この地下室の私の八つの部屋が、今は私の内部であり、私以外の人間は、外側に閉じ込められている。私だけが自由だ」(p.218)
「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」
「い、いや・・」萩原は先生に当てられた学生のように慌てた。「それはですね、つまり、その・・いや、確かに、そういえば・・、どうしてですか?」
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は地と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ」
「待ってください・・」刑事が片手を挙げて言う。「鏡の映像に・・、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが・・」
「いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ。」(p.434)