自由からの逃走


自由からの逃走(エーリッヒ・フロム/東京創元社)

ここまで素晴らしい本に、一生のうちにいったい何冊出会えるのだろうと思うぐらいの名著。
名言を抜き出そうとすると、ほぼ全ページにわたって名言だらけなので、丸ごと本をコピーしたほうが早いぐらいのことになってしまう。
そもそも、タイトルからして秀逸だ。
「自由」というのは、普通は、肯定的な意味で使われる。
自由は素晴らしいもの、もっと自由になりたい、という言い方をされる。
その自由から、「逃走」をするという。何故か?
自由というのは良い側面だけではないからだ。自由などというものを持ったおかげで、人は連帯感を失って、どうしようもないほどの孤独にもおちいる。
中世の封建社会の時代には、国王や領主を除いた個人個人に「自由」などというものはまったく存在しなかった。それぞれの役割や、日々やらなくてはいけないことをはじめとして、生き方のすべてが規定されていた。
それはしかし、そもそも「自由」などという概念がない時には、極めて自然な姿だったし、そのことに特別な疑問を持つこともないまま、家族や近隣の人々と、それなりに幸福に暮らしていた。
自由がないことが、そのまま不幸なことであるとは限らないのだ。
ルネサンスや宗教革命が起こって以降、自由という概念が生まれてしまってからは、中世は個人が尊重されることのなかった暗黒の時代などと言われることになったけれど、それは一つの価値化に縛られた、非常に偏った見方なのだということを、この本から知った。
話しの論理展開の仕方が非常に上手で、学術論文のような堅さを消しつつ、適度に親しみやすい事例を豊富に出している点も良い。他の著書から言葉を引用する時の、その文章についても、よくこんなにドンピシャな内容を見つけたものだ、と感心するような引用が多い。
この本が、ここ十年くらいのうちに書かれたというなら、まだ衝撃は少ない。
しかし、この本が出版されたのは1941年。まだ、第二次世界大戦の行く末も定かでない時代から、その後アメリカが主導することになる資本主義経済や、自由至上主義の本質について、ここまで詳しく見抜いているというのは、スゴすぎる。
大衆になった時に、人はいかに「個性」や「自由」を自ら捨てることで、強大な権力に身をゆだねようとするか、という心理的状況について、フロムはナチスのやり方を例に出して細かく検証をしているが、これが書かれた時はまだ、ナチスがドイツにおいて圧倒的な支配力を持っていた時代であり、しかも、フロム自身もドイツ人なのだ。
東京創元社の「自由からの逃走」は、2008年現在すでに115版を重ねている。
この本は、この先も長い間、おそらく資本主義経済そのものよりも長生きをして、読み継がれていくのではないかと思う。
【名言】
根本的に人間のパーソナリティは、特殊な生活様式によって形成される。たとえば子どものときにすでに家族という媒介をとおして、かれは特殊な生活様式に直面している。そして家族というものは、特定の社会や階級に典型的な特徴をすべて具えているのである。(p.25)
近代社会とくらべて、中世社会を特徴づけるものは個人的自由の欠如である。当時ひとはだれでも社会的秩序のなかで、自分への役割へつながれていた。社会的にいっても、一つの階級から他の階級へ移るような機会はほとんどなく、一つの町や村から他の場所へ移るという地理的な移動さえ、ほとんど不可能であった。わずかの例外をのぞいて、生まれた土地に一生踏みとどまらなければならなかった。またときには、自分の好む衣装をつけることも、好きな物を食べることさえも自由ではなかった。(中略)しかし近代的な意味での自由はなかったが、中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。(p.52)
ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅却とを要求した。ルッターの「信仰」は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」にたいし、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点をもつ解決方法である。(p.90)
催眠術、とくに術後暗示の実験から、なにが証明されるであろうか。そこから明らかになることは、われわれは、思想や、感情や、願望、さらにまた官能的感覚さえも、自分自身のものを主観的に感じながらもつことができるということ、しかしわれわれがこれらの思想や感情を経験しているとしても、それは外部からあたえられたもので、根本的にわれわれと無縁であり、われわれが考えたり感じたりしているものではないということである。(p.207)
能動的な思考から生まれてくる思考は、つねに新しく独創的である。独創的ということは、必ずしも他の人間が以前に考えなかったという意味ではなく、考える人間が、自分の外の世界にしろ内の世界にしろ、そこになにか新しいものを発見するために、その手段として思考を用いたという意味においてである。(p.213)
女給であれ、外交員であれ、医者であれ、自分のつとめを売ろうと望むならば、感じのよいパーソナリティーをもつ必要がある。ただ社会的ピラミッドの底辺にあって、自分の肉体的労働しか売るもののない人間と、ピラミッドの頂上にいる人間だけが、とくに感じをよくする必要がない。(p.269)