蛇を踏む(川上弘美/文藝春秋)
主人公がうっかり踏んでしまったために関わりを持った蛇(のようなもの)は、ある時は蛇であり、それと同じ確率で母でもある。それは、量子的な重ね合わせ状態のような、境界が曖昧で、それでいて一瞬にしてその両方を行ったりきたりする存在なのではないかと思う。
この作品は、果たして「蛇は何を象徴したものなのか」について、どう解釈するかによって、かなり見方が変わってくるだろうと思う。
蛇というのは、世界各地の民話に現れる、人類が共通に持っている原初的なイメージなのだと聞いたことがある。国によっては「死と再生」や「神の使い」を象徴するらしいけれども、日本の場合、蛇というのは「道成寺」の話しに出てくるような、粘着質の、薄気味の悪い印象があるような気がする。
自分は、この蛇は、主人公の内側にある様々な願望や嫌悪感などの無意識を象徴したものではないかと思った。普段は分からないし、分かりたくもない存在だけれども、分かちがたく確かに心の内部にある無形の念のようなもの。
この物語は、「鶴の恩返し」のような伝統的な民話の雰囲気を持ってはいるけれども、それを非常に現代的な舞台とテーマに置き換えて書き直した、最先端の寓話なのだと思う。
【名言】
女の皮膚がぬらりと光って、たいそう蛇らしい様子になった。今のこの今、私はこの女をしょってしまった、と思った。(p.26)
蛇といえば、思うことがあるのだ。人と肌を合わせるときのことである。その人たちと肌を合わせる最初のとき、私はいつも目をつぶれない。その人たちの手が私を絡め私の手がその人を巻き、二人して人間のかたちでないような心持ちになろうというときも、私は人間のかたちをやめられない。いつまでも人間の輪郭を保ったまま、及ぼうとしても及べない。目を閉じればその人に溶けこんでその人たちと私の輪郭は混じりあえるはずなのに、どうしても目をつぶれないのである。(p.44)