森の生活(ソロー)


森の生活(ヘンリー・D.ソロー/講談社)

今から150年前に、ボストン近郊の湖のほとりに小屋を立てて隠遁生活をしていた著者の、日々の自活記録。
エコロジーっぽい雰囲気だけれど、ソローがスゴいのは、周りのブームに流されてやっていることではなく、完全に自分の独創で、先駆者としてすべてをオリジナルで考えて行動しているところだ。
読んでいて強く感じるのは、この人は、かなり偏屈でプライドの高い理想主義者だったんだろうということだ。口調がやたらと偉そうなのは、翻訳のせいもあるだろうけれど、それにしてもこの、人をバカにしたような上から目線の説教くささは、読んでいてツラかった。
言っていることがやたらと極端でアナーキーなのだけれど、ところどころ、非常に深く共感を感じるところはある。
「一緒にいると鬱陶しいが、言っていることは非常にまっとうでタメになる」頑固爺いを供に、しばし森の中で生活するという疑似体験が出来る感じの本だった。
【名言】
われわれは、家を建てる喜びを、いつまでも大工にまかせておいてよいのだろうか?
結局、建築ということは、大部分の人々の経験から判断して、どれほどの事に相当するのであろうか?(p.68)
五年以上もの間、私は自分の手仕事による労働だけで自活の生活をしてきた。そこでわかったことは、一年のうち六週間ほど働けば全生活費が稼げるということである。だから私は冬の全期間と夏の大半を自由に自分の研究にまるまる当てることができた。(p.100)
要するに、私が確信していることは、信念と経験から判断すれば、われわれが質素で、賢い生き方さえすれば、この地上で自分一人養っていくのは、さして辛いことではなく、楽しいことだという事実である。(p.102)
人の優しさというものは片寄っていたり、一時的気まぐれな行為ではなくて、無償にして、自分で意識することのない、誠実な心の豊かさのことでなければならぬ。これこそが、あまたの罪を覆う慈愛というものである。(p.110)
私が森へ赴いたのは、人生の重要な諸事実に臨むことで、慎重に生きたいと望んだからである。さらに、人生が教示するものを学び取ることができないものか、私が死を目前にした時、私が本当の人生を生きたということを発見したいと望んだからである。人生でないものを生きたくはない。生きるということはそれほど大切なのであるから、やむにやまれぬ事情がないかぎり、諦めることはしたくなかった。(p.139)
プラトンの名前を聞いて、彼の著作を読まずにいられようか?まるでプラトンがこの町の人で、私が彼に、隣人でありながら一度も会わず、しかも、彼の話しを聴くこともなく、彼の言葉の英知に耳を傾けることもしない、というわけだ。(p.163)
私の生活のやり方には少なくともこんな利点があるのだった。つまり、他の人々はわざわざ外出して、社交とか劇場に行って楽しみを求めなければならないのに、私の生活そのものが私の楽しみであり、少しも新鮮さを失わないということだ。(p.172)
一般的に社交というものはつまらないものだ。互いが会っても別に目新しい、有益なことを身につけるほど時間的余裕もないのに、短時間しばしば会ったりする。一日に三度の食事で顔を合わせ、互いに古くて黴くさくなったチーズをあらためて味わう。こんなわけで我慢までして頻繁に顔を合わせたり、また、互いが喧嘩でも始めないようにするために「礼儀作法と礼儀正しさ」などと呼ばれている、ある心構えのような規則をつくることに同意しなければならなかったのである。われわれは郵便局で顔を合わせ、懇親会でも顔を合わせ、毎晩のように暖炉のそばに集まる。われわれは人が集まる所で生活し、自分勝手に振る舞い、互いに過ちを犯している。こうして、互いに敬意を失ってゆくのだと思う。すべての大切で、心の通ったコミュニケーションを行なうには、そう頻繁に会わなくても事足りる。(p.205)
人間が肉食動物である事は非難されてよいのではないだろうか?なるほど、人間は他の動物を食べることによって、その大部分の生活を維持することができ、かつ、そのようにしているが、これはみじめな生き方である。(p.318)
私は長い間、水を飲むことに慣れ親しんできたことを嬉しく思っている。私は酒など飲まず、いつもしらふでいたい。酒にはその酔い方にも段階がはてしなくある。思うに、水こそが賢い人間にとって唯一の飲み物なのだ。ワインなどはそれほど気品のある飲み物ではない。(p.320)