ミュータント・メッセージ


ミュータント・メッセージ(マルロ・モーガン/角川書店)

最近、「自分の前に現れた流れに従う」というテーマについて考えることが多かったのだけれど、それと照らし合わせて、この、「ミュータント・メッセージ」に登場する女性のように、突然訪れた流れに乗ることが自分には出来るのだろうかと考えてみた。これは、相当に難しい。
文明生活を50年もの間過ごしてきたアメリカ人女性が、オーストラリアでアボリジニの土着部族の招待を受けた瞬間から、持ち物のすべてを燃やされて、着のみ着のまま裸足で120日間も熱暑の砂漠を横断することになる。水もないし、食べ物もない。朝起きて、一日を生き延びられるかどうかは、その日に、食糧となるヘビや水が自分たちの前に現れてくれるかどうかにかかっている。
イスラム教でいうところの神の思し召し(インシュアラー)に完全に身を委ねたような状態で、過酷な環境で生活をする人々は、自然にこういう、生き死には自分の手におえる問題ではないという思想が身に付くんだろうという気がする。
何も持っていなくても、その日必要なものは必ずその日に与えられると、アボリジニの人は信じている。でも、これは、「所有する文化」に育った身であってみれば、かなりハードルの高い思考の切り替えだろう。
「フィクションのような形式をとったノンフィクション」という記載が本文の中にあるけれど、その実、「ノンフィクションのような形式をとったフィクション」であるような感じもして、結局、裏の裏の裏を読んでいけば、真偽のほどはよくわからない。
でも、たとえこの物語がただのお伽噺であったとしても、そこに含まれるメッセージの価値は失われないだろうと思う。結局、同じ場面で自分だったらどうするかという問題提起を読者が突きつけられることには変わりはない。この本が与えてくれた問題は、かなり切実な内容だった。
それは、自分が持っていたものや、積み上げてきたものをすべて捨てて、ゼロからやり直す根性があるか、という問いなのだ。なにしろ、この主人公の女性は50歳で、何の心の準備も出来ていない状態から異世界へと旅立った。それが、砂漠を横断するうちに何度も皮膚がめくれて、水の存在を感知出来るようになり、白髪の後から黒い髪が生えてきたという。
旅の途中にこのアメリカ人女性が出くわす葛藤と、それを乗り越える過程は、読んでいて共感出来るところが多く、アボリジニから出される同じ課題を疑似体験したような気持ちになった。
【名言】
私は一夜の眠りで体力が復活すること、数滴の水で渇きが癒されること、甘みから苦みまであらゆる味を感じることを心から感謝するようになった。今までの私は仕事の保障やインフレにたいする防護手段、不動産の購入や老後のための貯金などを意識して生きてきた。ここでの私たちの保証といえば永遠にくり返される夜明けから日没までのサイクルしかない。私の基準から見てもっとも不安定な人種に癌やストレスや心臓病がまるでないことは驚きだった。(p.74)
「年をとることを祝わないとしたら、なにを祝うの?」私は言った。
「よくなることに」という答えが返ってきた。「去年より今年のほうがさらに賢くていい人間になったら、それを祝うんだ。それは自分だけしか知らないことだから、自分でパーティの時期がきたとみんなに告げるんだ。」(p.98)
すべるように動く蛇は、なんども脱皮をくり返すことが教えになる。7つのとき信じたことを37歳でもまだ信じるとしたら人生から得るものは少ない。古い考え方や習慣や意見はむろん、ときには仲間でさえも脱ぎ捨てることが必要だ。捨てることは人間にとって非常にむずかしいレッスンでもある。(p.122)
人生は一回ではなく何度も生きられること、すでにひとつのドアが閉じられたことを教えられた。今まで周りにいた人々や住んでいた場所、過去の価値観や信念にはもうとどまれない時期がきたことを教えられた。自分の魂の成長のために私はそっとドアを閉じて新しい場所に入ったのだ。(p.140)
「わたしはあなたとの友情を大切にするよ。平和な心で行きなさい、われわれの考え方で身を守るように」考えてからこう言いそえたとき、彼の目がきらりと光ったような気がした。「われわれはまた会うだろう、つぎは厄介な人間の体なしでな」(p.211)