名言
日頃ネガティブな判断が心に湧いてきたら、そこで「ゲームオーバー」だと考えましょう。その先に待っているのは、自己否定という暗い妄想です。その闇の中に希望はありません。考えても答えは見つかりません。
いさぎよく、「感覚」の世界へ、心の別の領域へ、意識を向け換えようと考えるのです。
そして、外に出るのです。
あの比叡山では「千日回峰行」といって、毎日三〇キロから八〇キロメートルにわたる距離を、足かけ七年かけて歩きつづける修行があります。
「自己否定を抜けるための散歩」も、一つの修行です。修行という言い方が重たければ、練習」「実践」「生活」「心がけ」というのは、どうでしょうか。
どれくらいの期間歩けばいいのか、決まった答えはありません。でも、ただ歩けばいいのですから、難しくありません。何か月でも、何年でも、自分を否定する判断がえてなくなるまで、散歩しつづけてみるのです。
自分を苦しめる判断を抜けることほど、人生で大切なことはありません。
じっくりと肚をすえて、心の自由を取り戻すまで、歩いてみようではありませんか。
(p.78)
ブッダは、その名の通り“自覚めた人”として、当時のインドで日増しに有名になっていきました。何百人もの弟子を抱える高名なバラモンでさえ、ブッダの弟子になる者たちが出てきました。インドでは、今も昔も、カーストが絶対的な意味を持っています。ブッダのカーストは、バラモン(司祭階級)より下のクシャトリア”(武士階級)でした。
そのブッダに、最上位カーストのバラモンが弟子入りするというのは、当時はかなりショッキングな事件だったのです。
あるとき、ひとりのバラモンが、自分と同じ姓を持つバラモンがブッダの弟子になったことを耳にしました。プライドの高いバラモンには、これが許せませんでした。ものすごい剣幕でブッダのところに押しかけ、弟子や訪問者たちが大勢いる目の前で、言葉のかぎりを尽くして誹謗中傷を浴びせました。辺りには並ならぬ緊迫が走りました。
ところが、ブッダは、静かに、こう返したのです。
「バラモンよ、あなたが自宅でふるまったごちそうを客人が食べなかったら、それは誰のものになるか?」
質問されれば、答えざるを得ません。バラモンは「それは当然、私のものになる」と答えました。
「あなたは、その食事をどうなさるか?」「それは自分で食べるだろう」とバラモンは答えました。
すると、ブッダはこう言ったのです。もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。
ー罵倒するバラモンとの対峙サンユッタ・ニカーヤここで「食事」とは、バラモンがぶつけてきた非難の言葉です。もし相手の言葉に反応して言い返せば、自分も同じ反応をしたー食べたーことになってしまう。だから決して「受け取らない」。つまり「反応しない」というのです。
ブッダは、ふつうの人なら腹を立てるようなことを言われても、「無反応」で返しました。というのも、「苦しみのない心」を人生の目的とする以上、「反応して心を乱されることは無意味である」と、はっきり知っていたからです。どのようなときも決して反応せず、ただ相手を見すえて、理解するのみしその立場に徹していたのです。
このブッダの合理的態度から学べることは、「反応しないことが最高の勝利である」という理解です。
仏教における勝利とは、相手に勝つことではありません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。
(p.99)
人は何かを求めて生きている。だが、求めることには、二種類あるのではないか。
つまり、間違ったものを求めることと、正しいものを求めることだ。
間違ったものを求めるというのは、老いと病と死という”喪失”を逃れられない人間でありながら、いつまでも老いず、病まず、死なないことを求めることではないか。
正しいものを求めるというのは、この間違いに気づいて、“喪失”を乗り越えた、人間的な苦悩から離れた生き方を求めることではないか。
今の私は1間違ったものを求めて生きているにすぎない。
1ゴータマ若き日の苦悩アングッタラ・ニカーヤここに、のちのブッダの教えの本質である「正しい思考”の一端が見えます。正しい思考の一つは、「方向性を見る」という考え方です。
一般に人は、若くいたい、健康でいたい、長生きしたい、お金持ちになりたい、キャリアや地位や学歴や評判などで、他者に賞賛されたいと願います。それは、世俗的な価値を手に入れることを「方向性」にすえた生き方です。
しかし、それらの価値は、手に入るとはかぎりません。手にしたところで、続きません。
やがて失われるし、自分という存在そのものさえ、数十年もすれば、社会から忘れ去られてしまうでしょう。
なのに、いつまでも手に入れること、失わないことばかり求めて生きているーそれは「間違ったものを求める人生だ」(ああ、虚しい)と、ゴータマは言うのです。
ゴータマの天才は、その先にありました。自身の生き方を疑うだけでなく、「この苦しみから離れる生き方」を探そうと考えるのです。
この「苦しみから離れる」というのは、別に「人生を降りる」とか「あきらめる」とか「社会を否定する」といった、マイナスでネガティブな方向ではありません。
「人間はみな、望むようには生きられない現実に苦しんでいる。ならば、その現実に苦しまない心の持ちようを目指そう」というのです。
(p.213)