善の研究


善の研究<全注釈>(西田幾多郎/講談社)

言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。
同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えているだけのようなことが多くて、あまり参考にならなかったのだけれど、各章の終わりにある、その章のまとめには、要点が簡潔に書き加えられていて、原文だけを読むよりはわかりやすかった。
この本は、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の全四編から成っていて、主題は、第三編の「善」にある。一番読みやすいのも、この第三編であるので、ここだけを読んでも充分に要点は含まれていると思う。
この部分と比べると、第一編、第二編は、扱っている内容が極めて抽象的な概念であることもあって、かなり難しい。書かれた順番として、第一編は、第三編よりも後に書かれたということなので、より、話しの骨格を明確にするために、補助的に追加したものなのだろう。
この本の話しの進め方は、非常に緻密で、一段一段と論理を着実に積み重ねながら、話しを展開している。だから、途中でわからなくなると、自動的に、その後の話しにもついていけなくなるので、特に初めの部分は重要だ。
その、一番最初に出てくるのが「純粋経験」という概念で、その概念を起点として、この著書のすべての話しへとつながっている。しかし、一番難しかったのもこの始め部分だったので、ここがよくわからないために止めてしまうぐらいであれば、最初に、第三編の「善」から読んでしまったほうがいいと思う。
読んでいて思うのは、論理展開の厳密さで、その中に少しの不純物も混じらせまいとする、異様なまでの注意深さだ。
デカルトが「我思うゆえに我あり」というところを出発点として、それ以外の一切を排除したのと同じように、「最初にあるのは純粋経験だけである」ということだけを認めて、そこから、余計な偏見やノイズを丁寧に取り除きながら、思考を前に進めていく。
だから、あきれるほど遠まわしな言い回しが多いし、なんでわざわざ簡単なことをそこまでまわりくどく言うのかと思う部分もあるけれど、この進め方でのみ、誤りの入り込む余地のない、純粋な世界観を組み上げることが出来るのだろうと思う。
第三編の中にある、「意思の自由」というものはあるかどうか、という話しは特に面白かった。「善」というものが成立するかどうかは、意思に自由があるかどうかに大きくかかっているところがあり、この本では、特にその部分について詳しく検証がおこなわれている。
「善とは、宇宙の根源的統一力と合致した、個人性を実現するような行為」という結論については、納得がいく内容ではあったけれども、あまり斬新さや、新しい気づきは得られなかった。この本は、主張している内容そのものよりも、「道徳」や「善」といった抽象的なものを考える時の思考の進め方という点で、学ぶところが多い本だった。
【名言】
思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではなく、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自己を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、さらに適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。(p.61)
我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機がすなわち我である。(p.95)
世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。(p.125)
もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するのをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。(p.146)
意思の発展完成はただちに自己の発展感性となるので、善とは自己の発展感性であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(p.328)
西田にとって善とは人格の発現にあるが、その場合人格とは宇宙の根源的統一力と合致するとともに、それが各人において各様の個性をもって現れたものであった。(p.345)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記

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