アバター

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これは、一つの新しい時代を切り拓いた、記念碑的な映画として記憶されることになる作品だろうと思う。
「3D」であることに依存した安易な作りなんだろうと勝手に想像して、映像そのものにはあまり期待をしていなかったところから観たので、この徹底的な作り込み方にはとにかく圧倒された。
映像のクオリティーとしては、人類が到達した最高峰と思っていた「ファイナルファンタジー13」に劣らない。表情や髪の動きのようなディテールの部分では「FF13」に軍配が上がるものの、迫力という点では「アバター」のほうが上で、昆虫との戦いとか木が倒されるところとか、生身の体感として怖さを感じてしまう、この臨場感は、今までになかった領域に突入している。
ナヴィ族の顔が、最初どうにも違和感があったのだけど、観ているうちに段々慣れてきて、「それもアリ」になってくるから不思議だ。
たとえばアメリカ大陸に入植したヨーロッパ人が、インディアンを初めて見た時にも、こんな感覚だったのかもしれないと思う。
「マトリックス」以上に、現実(リアル)と仮想現実(バーチャル)との違いについて考えさせられる作品だった。ここまで来ると、もはや、バーチャルがリアルを超えてしまっているのではないか。
主人公のジェイクが、現実世界では両足の感覚を失ってしまっているというのは象徴的で、肉体的な面においても、バーチャルのほうが自由度が高くなってしまっている。
とはいえ、この未来の時代では、現実においても、金次第で足の感覚は再び手に入れることが出来てしまうらしく、ここまでくると、もはやどちらの世界が虚構なのやら区別がつかない。
バーチャルの世界では、肉体がブルドーザに轢かれて死にそう(破壊されそう)な危機に陥っている時に、リアルの世界では、そうとも知らず、のんきに食事をしたりしてるなんてのは、ほとんどオンラインゲームのような滑稽な姿だった。
「アバター」というタイトルが示している通り、ナヴィ族になっている時のジェイクというのは、かりそめの姿だ。しかし、そのバーチャルが、少しずつリアルを獲得して、現実世界を凌駕していくところは感動的だ。
人間の姿だろうが、ナヴィの姿だろうが、ネイティリにとってはジェイクであることに代わりはない。結局、アイデンティティーは形式にあるのではなく、魂そのものにあるというのは、ものすごく興味を惹かれるテーマだった。