コミュニケーション不全症候群


コミュニケーション不全症候群(中島梓/筑摩書房)

すごい本だ。現代日本の病理について、ここまで冷徹にありのままに書いている本を他に見たことがない。極端に狭くなったパーソナルスペースや、満たされる機会のない承認欲求など、現代に特有の息苦しさの構造について、とてもわかりやすく、筋道立てて説明をしている。
世の中のカウンセラーや心理学者は、それが著名で立派な経歴を持っている人であるほど、自分自身はコミュニケーション不全という闇から遠ざかった場所に立つことになるという矛盾がある。結果、本当のことを的確な言葉で表現出来る人はとても少ないということになる。
著者が本の中で何度も告白していることなのだけれど、著者自身が、現代のコミュニケーション不全の症状のすべてを確実に内包していて、それらすべてを経験している存在であるのだという。しかし、中島梓氏の場合は、それに加えて、それを言葉によって表現するための卓抜した分析力と文章力があった。だから、とても説得力があるし、その一つ一つの言葉にものすごくリアリティーがある。
ダイエット症候群の章の、ほとんどすべての女性が「ダイエット」(あるいはそれにまつわる「美」)という価値基準に何らかの形で囚われてしまっているということについての分析は見事だと思った。岡崎京子氏の「ヘルタースケルター」は、考えてみれば、この病的心理を恐ろしいまでに的確に表現していた。
この本の初版は1991年で、20年近く経っているにも関わらず、ここで語られている内容は現在もまったく意味を失っておらず、重要性はさらに増しているように思える。
一方で「栗本薫」として幻想世界を創造しながら、他方では「中島梓」として現実世界を冷静に分析する、この二つの視点が一人の人物の中に同居しているというのは、類まれなる奇跡だったのだと、今あらためて思う。
【名言】
これはコミュニケーション不全症候群の原因でもあれば、また結果でもあると私は思うのだが、「過密」である。
そんなことに何ほどの意味があるのか、と人は思うかもしれない。私は水槽に金魚やいろいろな魚を飼っているので、単なる定説としてだけでなく、実感としてわかるのだが、過密というものは、存在に生存の基本となる空間の確保をおびやかす。(p.30)
コミュニケーション不全症候群というのは、必ずしも異常事態なわけではない。むしろこの現代になおちゃんと生きてゆかなくてはならない我々が、なんとかして編みだした、「適応のための不適応」であるのだ、といえなくもないとは思う。この異常な人口集中のなかにあって、もし私たちが「健全」な反応能力を保ちつづけていたとしたら、私たちはとうてい種として生延びる事は出来なかったのかもしれないのだ。(p.37)
「間引き」された人間にとっていちばんつらいのは、ほんとうの間引きならばそれで淘汰されてしまっておしまいなのだが、この象徴的間引きは、間引きされてもなおかつ行き続けて行かねばならない、ということである。間引きされた弱者もまた、「間引きなどは存在しない」「すべての人間は生きる基本的人権を有する」という現代社会の共同幻想を維持するためにだけは協力しなくてはならない。(p.60)
こういった症状にすべては、社会が「とるにたらぬ者」として最下層においた、「無名の若い女の子」が、その社会からの規定から自己を救い、なんとかして自分自身を社会のなかに居場所のある、それも社会から進んで迎えられ得るような存在へと脱出させなくてはならないという苦闘が原因だ。(p.154)
ダイエットをせずにいられない少女たちは、社会が与えてくれるあまりにもせまいすきまに自分をあてはめようとして身をけずりつづける人間である。彼女たちははじめから、逃れるべき自分の内宇宙さえ持たない。摂食障害の症例研究の書が例外なく、拒食症にかかる患者の性格分析として、「まじめで優等生タイプで、親や周囲の期待に答えようと過度のがんばりをかさねる長女」をあげているのは偶然ではない。そういうタイプの個人には、はじめから社会規範から逸脱しても個人の存在のほうが重大であるという確信が欠けているのだ。(p.157)
ある少女がダイエットに成功し、「スリム」になったとしよう。そうすると、今度は彼女は「美人」であることが要求されるだろう。彼女が美容整形をして美人になったとする。そうすると今度は「有名」であること、ヌードモデルでもなんでもよいがとにかく有名女性であること。さらに金を稼ぐことが出来ればもっとよい。彼女がそれもクリアしたとしよう。それで彼女は今度こそ「幸福」に、一生安全な自分の場所を手に入れたのだろうか?いや、最後の選別が彼女を待ち受けている。
そうやって、ダイエットしてスリムになり、整形をして美人になり、TVに出て有名になり、金をかせぎ、社会にとっての最高の女神、最終段階の理想のモデルになるために苦闘しているあいだに歳月が流れる。そして彼女は今度は、「いくらきれいでスリムだったって、もうトシだろ」「やっぱり少しくらい顔が彼女より何でも、少々太ってても、若いほうが」という恐るべき最後の残酷な選別をうけるのだ。この選別、「歳月」、年齢に勝てる者はこの世に存在しない。(p.165)
現代の私たちの心をもっとも占めてしまっているのは、まったく「見られる」ことであり、それに対して「見る側」であることは、失敗者であることである。「見られること」を完全に支配した個人がもっともいまや偉い個人である、ということになったのだ。なぜか?答えはただ一つ、当然の解答は、「現代にもっとも欠乏しているもの」がそこにあるからなのだ。
かつてしかし、求められる価値がこれほどまでに不安定な、不確実な、何に由来するのか皆目見当のつかないような時代はついぞ存在しなかった。(p.178)
顔のない、ということは抵抗する対象もないこういう断罪にたいして、個人はいったいどうやって立ち向かうことができるだろう。力には力で対抗することがでいる。だがイメージにはイメージで対抗しようとしてみても、イメージをつくるものは社会であって、個人の方ではない。まんまと社会をのせてやって、チョロいものだと悦に入るのと、失敗してかえりみられもしないのとでは、圧倒的に後者のほうが多いのである。このような暴虐な圧政は、いかなる独裁者も、帝政ローマの暴君でさえよくなし得なかった。それは大衆という顔のないディクテーターの論理である。実際はどこにもいないディクテーターだ。これほど完璧な、決して打倒することのできない独裁制はない。(p.180)
ある地方ではある風土病を直すにはその患者をマラリアに罹患させる。高熱を発することによって体内のもうひとつの病原菌を殺すわけである。この場合、その患者はマラリアにかかることによって、つまりはれっきとした病気になることによって致命的な病気で死んでゆくことをまぬかれるのだ。もしマラリアにかからなければ彼は死ぬだろう。だが、マラリアにかかれは彼は病気になるだろう。コミュニケーション不全症候群の本質とはそのようなものである。(p.290)
かつて哲学も思想もみな選ばれた階層のためのものだった。精神分析もフロイトの昔は貴族階級のものであった。民衆は生活するのに手一杯であり、とうてい精神だのコミュニケーションだのにかまっているゆとりはなかった。むしろコミュニケーション不全症候群などというものが表面にこれほど浮上してきたのは、我々がみな半端に自分をかえりみたり、精神的になったりする余地が出てきたからかもしれず、しかもまだ我々は本当の意味では精神だの自我というものを扱えるには遠いところにいる、ということなのかもしれない。(p.303)