『塞王の楯』戦争をなくすことが出来るのは「最強の鉄砲」と「無敵の盾」どちらなのか


『塞王の楯』(今村翔吾/集英社)

「絶対に破られない石垣」と「どんな城をも落とす鉄砲」の一騎打ちの戦い、という設定はロマンチックで面白かった。

ただ、現実にはこんな対決をしたとしても、拮抗するような状況にはならないだろうという感じがして、あまり現実味がない。

物語の中での大津城の攻防を読んでいても思うけれど、何かを造るよりも、それを破壊するほうがずっと簡単だ。
何年もかけて組み上げた作品であっても、破壊される時は一瞬。
その非対称性がある以上、最初っから勝負にもならない。

タイトルにある「賽」というのは、賽の河原の「賽」であるらしい。
親よりも先に死んだ子が、供養のために地道に石を積み上げていっては、鬼が出てくて崩されるという地獄。
それもまた、創造は苦しく、破壊は一瞬であるという無慈悲さを思わせる。

実際、匡介が作った石垣は、絶対破られないと言えるような堅固なものではなく、大筒の弾で壊されてれてはその場で修復して、を繰り返している。
しかも、守備側の勝利条件は、数日の間だけ石垣を突破されないように持ちこたえればいいだけ、という、圧倒的に有利なハンデ戦。

匡介の持論の、「絶対に破られない石垣さえ作れば、戦がおこらない太平の世が訪れる」という話も、納得がいかない。
対する彦九郎の持論である、「最強の鉄砲を作れば、それが抑止力となって戦をなくせる」という話のほうがずっと説得力がある。
核による相互確証破壊で非戦の均衡が保たれるのと同じように、専守防衛のみを考えて戦争がなくなるというのは夢物語であるように思った。

人力で石垣を積み上げる、という職人技について、とても詳細に至るまで描写がされているのは、とても面白く、学びになった。

性能のいい鉄砲を作るというのも高度な技術だけれども、堅牢な石垣を造るというのもまた、鉄砲のような精密な道具とは全然違った角度の技術が必要になる。

石の切り出しから始まり、運搬、積み上げ。石の重心や、石の目の向きを見極めるだけでなく、それを立体的に組み合わせるという作業を、コンピューターを使わずに頭の中でやるというのは、超人的な、天性の感覚が必要になるのだと思う。

その技術を代々受け継いでいくための、「組」のシステムがあるところも含めて、かなり独特で、面白い世界だった。

物語そのものは、単調で、あまりワクワク感や、先が気になるような展開がなかった。
そつなく上手だけれども、きれいにまとまり過ぎている、という印象で、深みはない。
「究極の楯」と「至高の矛」が戦を交える、というトピックが唯一の盛り上がりなので、そこに至るまでの前置きが随分と長いように感じる。

人物描写も、少年ジャンプに出てくるような、わかり易すぎるキャラクターばかりで、あまりに単純すぎじゃないかと思った。
匡介と、師匠の源斎との関係なんかは、タメ語で友達のような距離で、感覚がほんと少年マンガ。

主人公をはじめ、善人にしたいだろう人物は、いかにもセリフを棒読みしているような善人っぽい言動ばかりで、読んでいてむず痒くなってくる。そんな単純なものではないだろうと思ってしまう。
ドラマ化したら、そのまま脚本に使えそうなので、やりやすいかもしれないけれど。

歴史物としては、京極高次の描きかたは面白かった。
自身に戦の才幹はないけれども、妻であるお初の縁故(秀吉の義弟)という運でのみ生き残ってきた大名、という世評を持ちながら、人当たりが柔らかく、家臣からは慕われているという人物。
実際はどうだったのかはわからないけれど、新しい見方を提供してくれた。

名言

「事故を起こさない。それが荷方にとって、もっとも重要なことだ」
(中略)
「荷方は決められた時刻に、決められた分を必ず運ぶ。それが全てだ。いつ敵が攻めて来るか判らない時、石が一日遅れて石垣が造れず、落城したなんて笑い話にもならねえ」
確かにそれは積方でも同じである。堅い石垣を造るのは当然のこと、一刻でも早く完成させることを肝に銘じている。それで敵が攻めてこなければよい。攻めて来る可能性が残る限り、最速で最高のものを積み上げる。(第1章 p.59)

「雪国は損だな。そうでない地の倍は手間が掛かる」
玲次は源斎の甥であるため坂本の生まれ。それでも紀伊や土佐、薩摩のような温暖な地に比べれば雪に悩まされているほうである。
「確かにな」
匡介は額の汗を拭い、再び雪に鋤を突き刺した。息も真っ白になるほどの寒さにも拘わらず、躰は火照っている。雪掻きはそれほどの重労働である。これを損といえば損になる。
「何故、人はそんな寒いところに留まるんだろうな」
冬が来る前、群れながら南へ飛んでいく鳥を見たことがある。きっと冬の間は、少しでも暖かいところで過ごそうとしているのだろう。それに比べて人は同じところに留まり、同じところで生き、そして死んでいく者が圧倒的に多い。
「色々、断ち切れないもんがあるからだろ」
先祖累代の地だからという場合もあるだろう。だがそれ以上に人の繋がりや、そこでの思い出を守ろうとしているのかもしれない。だが時に幾ら守ろうとしても、己のように無理やり引き剥がされることもある。(第4章 p.167)

この十年の泰平で、鉄砲はさらなる進化を遂げた。十年とは短いようだが、戦国の余韻を残した仮初の泰平の中では十分過ぎる時である。
一方、後手である石垣の技は、鉄砲がどのような発展を遂げているのか見ていないためあまり変わっていない。むしろ匡介が言った「見せる石垣」のほうへ進化の舵を切りつつある。
源斎は目を細めてこちらを見つつ続けた。
「俺のは時代遅れの技だが、出来る限り出させてやるつもりだ」
伏見城はこの大乱における最も初めの攻城戦の舞台となる。つまり十年間磨かれた「攻め」技、最新の鉄砲が一斉に蔵出しされることになるのだ。それを源斎は全て受け止め、発展した鉄砲の技を余すところなく出させようとしているのだ。(第5章 p.253)

「技など必要ない。誰でもただ引き金を引くだけで、三十間先の敵を屠る…そんな武器を生み出す。それが団子を買うほど廉価になり、世に満ち溢れればよい」
「そうなれば世は酷い有様になるのでは…?」
「俺はそうは思わない。子どもでも一騎当千の荒武者を容易く殺せる。そんな武器が溢れているのに、野党が村を襲おうとするか。男が女を手籠めにしようとするか。戦を起こそうとするか。人は己の命が最も愛おしいのだ」
「確かに…」
職人は得心したように唸った。
「そんな世がいつか来る。その一歩に携わっていると思って仕事に励んでくれ」(第5章 p.264)

--飛田匡介。
遠く大津城にいるはずの宿敵に呼び掛けた。
己たちは時に死を作り、死を売るかのように言われてきた。だがそれは刀鍛冶もそうではないか。槍の柄を削り出す者も、己の弦を張る者も、さらに言えば馬を飼う者も、米を売る者も、この乱世において戦に関わりのない仕事を探すほうが難しい。ただ、ある仕事は芸術だと称えられ、ある仕事は戦以外に用いるのが本来だと嘯く、ただ砲だけが工芸、愛玩の域に達せず、戦がなければ無用の長物だと言われる。乱世の業の全てを背負わされてきたとさえ思える。
砲と対局にあるように思える石垣もそうである。元来、戦のためだけに存在していながら、う美しさを称賛されるようにもなりつつある。だが飛田源斎は、その跡を継ぐ匡介は、あくまで美しさではなく本来の石垣の意味を追い求めて来た。
己たちは何のために存在しているのか。そのような男との戦いの先にならば、その答えが落ちているような気がしてならない。(第8章 p.434)

靄の中に浮かんだ人影の正体は、三十年近くも前に生き別れた妹の花代だった。花代はこちらの声に気が付いて振り向いた。だがそれも僅かな間で、花代はまた目を元に戻す。
「それは」
花代の前に数段積まれた石の塔がある。そしてまた一つ、花代は小石を掴んでそっと上に載せた。この光景は知っている。
--賽の河原。
幼くして死んだ親不孝な子どもは、死んでも業を落とすまで極楽浄土には行き着かない。その業を落とす方法というのが石を積み上げること。それを為す場所が賽の河原である。
(中略)
花代の目は絶望に染まってはいない。しっかりと前を見据え、歯を食い縛り、石をまた積み上げていく。これを何百度、何千度、何万度繰り返したのかと想像して嗚咽が込み上げる。だが花代は未だ懸命さを失っていない。
「花代…花代…」
匡介は何度も何度も呼んだ。己は死んだはずなのに、止めどなく涙が流れ頬に温もりさえ感じた。また一つ、石を積み上げた時、花代は微かに口を綻ばせて言った。
「諦めないで」(第8章 p.469)