偶有性幸福論(茂木健一郎・江原啓之/ぴあ)
茂木さんと江原さんの、講演会での対談録。
立場も専門もまったく異なる二人であるにもかかわらず、その違いをまるで感じさせない対話の進み方を読むと、会話を成立させるものは共通した専門性があるかどうかではなく、相手に対する想像力と理解力なんだということがよくわかる。
こういう、きちんと話しがかみあっている対談というのは、お互いが相手の意見に対して切り込んでいける分、客観性が増すし、どういう展開になるか予想がつかないライブ感もあって、非常に面白くなる。
対談の前に、まず、それぞれが独演という形で話しをしているのだけれど、特に面白かったのは、茂木さんの話しだった。講演で話した内容をそのまま記録したものなので、普通の本よりもだいぶくだけた口調で話しをしている。
茂木さんが言っているのは、簡単にまとめてしまうと、「すべての人生はその偶有性において等価である」ということなのだけれど、これはかなり衝撃的な言葉だった。この言葉に出会ったというだけで、自分にとっては相当プライスレスな価値がある本だった。
【名言】
日本は本来、陰徳の国なんですよ。表に見えない、そこに心遣いをするという、非常に想像力の優れた国であったわけです。この国だけなんですよ、お茶が入りましたよって言うの。これは英語だったらば「私があなたのためにお茶を入れました」になるんですね。ですから、そうするとある意味ではすごく押しつけがましくなってしまうんですが、「お茶が入りましたよ」って日本語では言う。(江原)(p.31)
よく『水戸黄門』とかのドラマでやっているでしょ。悪人が「へ、へ、へ、死んでしまえば、もうおしまいだ」とか言って。確かにね、現代の物質的な世界観からいえば、死んでしまえばもうおしまいなんですよ。死人に口なしなんですから。でもほんとにそうなんですかね。死んでしまった人、亡くなった人の実在性をどう考えるかってこと以外に、僕は人生の本質的な問題はないんじゃないかと思ったことがあります。(茂木)(p.46)
人間って面白くて、例えば、美人じゃない人って美人にあこがれると思うんですよ。でも美人になってみると大したことじゃないんだよ、きっと。俺、川嶋なお美さんになったことないから分かんないけど、大したことないんだと思う。だって、一度に付き合える男は一人だけだし。美貌持ってたって、一度に100万人の男と付き合えるわけないんだから、そんな大したことないんですよ。どういうことかというと、要するに、才があると、見上げたときになんかすごいんだろうとか、うらやましいとか思っちゃうんだけど、でもどんな人生にもどうなるか分からないっていう楽しみがあるわけですよ。例えば、新潟に在住で、コンビニでバイトしながら安アパートで暮らしている青年は、「今日はちょっと早く仕事終わったな」って家に帰って、ビール飲みながらテレビつけたらたまたま自分の好きなタレントが出てて「うわっ」とか言って喜んでる。そのときに、携帯に気になってた子からメールが来たりなんかして、ラッキーみたいなね。そういう偶有性と、金持ちが「今日シャンパンは何にしようか」とか言って、「もうドンペリも飽きちゃったから何とかにしようか」って言ってるのって、そんな変わんないんだって。分かります?説得力ないですか。脳科学的に言うと、その両者は変わんないんです。つまりドーパミンという物質が脳の中にはあるんですよ。そのドーパミンっていう物質は、偶有性、どうなるか分かんない、それに反応して出るんです。一番喜びを感じたときに、人は自然に笑うわけです。にっこりと笑うわけです。その偶有性というのは、ほんとにどんな人生でも平等にあるんです。(茂木)(p.54)
向上するということは大事ですよ。向上するということは大事ですけれども、そこの中にある偶有性、どうなるか分からないということの喜び、これを楽しめるという覚悟があれば、もうこれでいいんです。
実は、その偶有性という覚悟を支えるのに、非常に大事なものが一つあります。それは何かというと「安全基地」というものなんです。子どもっていうのはね、なんでもチャレンジするんですよ。偶有性を楽しむんですよ。子どもっていうのは自然に笑うんです。ところが、それをやるためには親が安全基地を提供しなくちゃいけない。過干渉とか過保護は駄目、自由放任も駄目。安全基地って何かというと、子どもが自由に何かをやる。困ったときに助けてあげる。なんかアドバイスを求めてたらちゃんと向き合ってあげる。ただ愛するというね、これが何よりも子どもにとって安全基地になるんですよ。そしたら人は覚悟をもって、人生という偶有性を楽しむことができるんですよね。(茂木)(p.61)
捨てる勇気だと思うんですよ。結局物質的価値観。例えば今日、自分の家がなくなったらどうするかとか、それは心配性という言葉になるかもしれないけど、そうじゃなくて、なくなったらどんな世界が自分にあるだろうか。いつも私の中にあるのはそうなんです。この日本を捨てたらどういうふうな人生になるだろうかとか常に思う。そうするともう無限に道があるんですよ。(江原)(p.90)