プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(マックス・ヴェーバー/岩波書店)
何故、プロテスタントの人々は、そうでない人々よりも資本主義において優れた特性を示すことが多かったのか、ということについての解説なのだけれど、キリスト教圏の読者に向けて書かれているためか、キリスト教についての基本的な知識がないと、さっぱり通じないところがたくさんある。
キリスト教徒の諸宗派といっても、カトリックかプロテスタントかぐらいしかわからないし、それすらどういう違いがあるのかはっきり区別がつけられないところに、この本では、クェーカーだの敬虔派だのメソジストだの数多くの宗派が登場して、まったくイメージが湧かない。
生まれた時からプロテスタントに囲まれた環境で育った人であれば、簡単に通じる部分も多いのだろうし、きっともっと興味深く読める本なのだろうと思う。
全体の3割くらいは、本文についての注釈で占められていて、そこで脇道にそれてかなり詳しく説明がされていたりする。読み物としてのエンターテイメント性はまったくなく、学術書というか、ほとんど論文そのものだ。
テーマとして面白いのは、「禁欲」を大きな教義としているプロテスタントが何故、利潤を追求することを目的とする資本主義において、その能力を発揮出来たのか?という、この一見矛盾した問題を解き明かそうとしている点だ。この作品の見所は、この一点に尽きるといっていい。
訳者による解説が、要点がよくまとまっていてとてもわかりやすいので、本文より先に解説を読むのがおすすめ。
【名言】
労働は、昔から試験ずみの禁欲の手段である。東洋はもちろん、ほとんど全世界のあらゆる修道者の規律とははっきりと異なって、西洋の教会では、労働は古来そうした禁欲の手段として評価されてきた。それは、とりわけ、ピュウリタニズムが「汚れた生活」という観念で一括した一切の誘惑に対する独自な予防手段であり、しかも、その役割は決して小さいものではなかった。(p.300)
専門の仕事への専念と、それに伴うファウスト的な人間の全面性からの断念は、現今の世界ではすべて価値ある行為の前提であって、したがって「業績」と「断念」は今日ではどうしても切り離しえないものとなっている。こうした禁欲的基調を、ゲーテもまたその人生知の高みから「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」と、ファウストの生涯の終焉によって、われわれに教えようとしたのだった。彼にとって、この認識は、ゆたかで美しい人間性の時代からの断念を伴う、そうした決別を意味した。そうした時代は、古代にアテナイの全盛期がくりかえし現れなかったのと同様に、われわれの文化発展のなかでもう一度現れてくることはもはやないのだ。(p.364)