存在の耐えられない軽さ(ミラン・クンデラ/集英社)
タイトルが示しているとおり、この作品の中では、「軽さ」と「重さ」が、あらゆる事象を対比する基準として、頻繁に繰り返し現れる。
人は、自分の身に起こる大きな事件や、重くて深刻な事態には、真正面から対峙することで、案外と耐えられてしまうものなのかもしれない。
それよりも、人生において本当に耐え難いものは、重要と思えるほどのことが何も起こらず、自分の存在について大した意味を認められないという軽さを感じた時なのだ、ということが、この小説の基本テーマなのだと思った。
この物語には、数人の登場人物があらわれる。そのそれぞれに、個性や、出会いのドラマや、その後のいざこざはあるけれども、ここで描かれていることは、とても普遍的な葛藤なのだと思う。
「プラハの春」前後のチェコが舞台の中心になっているために、人々の生活の上にのしかかる、その政治的な影響は免れないけれど、それでもやはり、そこで人と人との間におこる出来事は、大まかにくくってしまえば、いつの時代のどの場所でも起こるようなものばかりだ。
物語は、いきなり冒頭から、ニーチェの永劫回帰の話しで始まる。その後、それぞれの登場人物の行動を俯瞰しながら、それぞれの人生観の違いを見比べて、そこに時々作者自身の解説まで入るという、やや人生論的な内容になっている。
この小説がややこしいのは、物語を見る視点が様々な人物の間を行ったりきたりしている上に、時系列もごちゃごちゃになっているからだ。この構成にどれだけの深い計算があるのかは理解出来なかったのだけれど、一回読んだだけでは、とても全体像を把握出来ないと思った。
章立てが変わっていて、全7部のうち、第1部と5部のタイトルがどちらも「軽さと重さ」、第2部と4部のタイトルが「心と身体」になっている。何故、重複して同じタイトルがついているのか謎だけど、面白い構成だ。
不思議だったのは、トマーシュとテレザの最期の直前の時期について、どこにも記述が見当たらないことだった。作者は意図的にその時期の描写を避けたのだろうけれど、なんだかそのことが、しっくりこない感じを残した。
【名言】
テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。それはまるで俳優がなんらの稽古なしに出演するようなものである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか?(p.13)
テレザはある日呼びもしないのに彼のところへ来た。ある日同じやり方で去っていった。一つの重いトランクをさげてきた。そして一つの重いトランクと共に去った。(p.41)
今、テレザがトマーシュのことを愛して、友人のZのことを愛していないのは単なる偶然であることに気がついた。トマーシュと実現された愛の他に、可能性としては、他の男性との数限りない愛が存在しているのである。
誰もがわれわれの人生の愛は重さを感じさせない何か軽いものでありうるとは考えていない。われわれは愛とはそうでなければならないもの、それなしではわれわれの人生が最早われわれの人生ではないと思っている。(p.48)
トマーシュは彼女のためにチェコにもどってきた。運命的ともいえる決断は、もし七年前に彼の部長が神経痛にならなかったら、まるで存在していなかったかのような偶然的な恋に依拠していた。そしてその絶対的な偶然を具現した問題の女が今彼の横に寝ていて、深い眠りの中で息をしているのである。(p.49)
彼女のまわりに輪になって九人の求婚者がひざまずいたときには、自分の裸を絶対に見せないようにした。それは恥ずかしさの程度で彼女の身体がもっている価値の程度を示したがっていたかのようであった。今や彼女は羞恥心を失っただけでなく、徹底的に恥ずかしさと関係を断つことによって、人生に華々しい一線を引き、自分が過大評価した若さとか美しさというものが実際には何の価値もないと叫びたがっているようであった。(p.61)
サビナはいった。「で、なぜときにはその力を私にふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。
サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(p.143)
人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、負けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。(p.156)
サビナの絵はよく売れ、アメリカが気に入った。しかし、ただ表面的にのみ。その表面の下にあるのは、見知らぬ世界であった。その下にはおじいさんも、おじさんも眠っていなかった。棺に入れられ、アメリカの土の中に降ろされるのは恐かった。
そこである日遺言状を書き、彼女の死体は埋葬され、その灰は撒布されることと定めた。テレザとトマーシュは重さの印の下で死んだ。彼女は軽さの印の下で死にたいのである。彼女は空気より軽くなる。これはパルメニデースによれば、否定的なものから肯定的なものへの変化である。(p.344)
われわれは忘れ去られる前に、俗悪なもの(キッチュ)へと変えられる。俗悪なもの(キッチュ)は存在と忘却の間の乗換駅なのである。(p.350)
テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ。(p.394)