シッダールタ


シッダールタ(ヘッセ/新潮社)

「シッダールタ」というのは、仏陀のことだと思っていたから、作品中で、主人公のシッダールタが仏陀に会うシーンがあった時に、一体どういうことか?と混乱した。
ややこしいけれど、シッダールタは、仏陀(ゴーダマ・シッダールタ)とは別の人物であるらしい。その、シッダールタが悟りに至るまでの修行を道のりを描いた物語。
内容的には、かなり仏教的思想に満ちていて、これを、ドイツ人のヘッセが書いたというのは、かなり驚きだ。しかしなんとなく、どこかやはり、たとえばこれを日本人が書いた場合とはかなり雰囲気が違っている感じがある。シッダールタという人について、より人間らしく、神聖化せずに描いているという印象だった。
仏陀に会っても、その教えに帰依しなかったり、結構意外な動きに出るし、普通に考えてダメダメなところも多々ある。途中、いい服を着るために商売人のもとで働き出して、ビジネスや賭博の方面でも才覚をあらわす、という、ギャグのようなところもあり、これはかなり衝撃的だった。
ゴーヴィンダという、幼なじみの友人との関わりが、物語の中で重要な位置づけを占めるというところは、「車輪の下」や「デミアン」に似た友情テイストが入っているし、悟りに至るプロセスや、悟りを得た内容についても、仏陀のものとは異なり、ヘッセの哲学がそこに入り込んで、独自にカスタマイズされた思想といえる。
しかし、最終的に時間という感覚がなくなってしまうというところや、石や木などすべてを愛する、というところなど、かなりスゴいところまで行ってしまっているし、東洋的な考え方がとても色濃く表われていると思う。
仏教小説という感じなのかと思っていたら、どちらかというと、山あり谷あり挫折ありの青春小説のような雰囲気で、想像していたのとはちょっと違う本だった。
【名言】
ぼくが今日まで沙門のもとで学んだことなんか、ゴーヴィンダよ、もっと早くもっと簡単に学べただろう。売女街の居酒屋でも、荷馬車の御者やばくち打ちのあいだでも学ぶことができただろう。
冥想とは何か。肉体からの離脱とは何か。断食とは何か。呼吸の停止とは何か。それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない。そんな逃避や、しばしの麻酔なら、牛追いにだって宿屋で数杯の酒か、発酵したヤシの乳液を飲むとき、見いだすのだ。それで牛追いは自分を忘れ、生活の苦痛を忘れ、しばしの麻酔を見いだす。彼は、数杯の酒で寝入り、シッダールタやゴーヴィンダが長い修行のうちに肉体から脱出して、無我の中にとどまるときに見いだすものを見いだすのだ。そうなんだよ、ゴーヴィンダよ。(p.22)
「おん身は賢い、沙門よ」と世尊は言った。「おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きい賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。(p.42)
周囲の世界が彼から溶け去り、彼ひとり空の星のように孤立したこの瞬間、冷たく気落ちしたこの瞬間から、シッダールタは浮かびあがった。前より以上に自我となり、堅く凝りかたまった。(p.48)
このバラモンはほんとの商人ではない。商人になることはないだろう。彼の心は商売に熱心になることはない。しかし彼は、成功がおのずから訪れてくるような人間の秘密を持っている。それが生まれつきの良い星であるにせよ、魔力であるにせよ、彼が沙門たちのもとで学んだ何かであるにせよ。(p.73)
これが今は彼を見捨ててしまった。三つのどれもが、断食することも、待つことも、考えることも、もはや、彼のものではなかった。最もあさましいことのために、最もはかないことのために、官能の喜びのために、安逸の生活のために、富のために、あの三つを放棄してしまったのだった!実際、彼は奇妙な経路をたどってきた。今、彼はほんとに小児人になってしまった、と思われた。(p.101)
自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。このうえ自分の道はどこへ自分を連れて行くことかしら?この道はたわけている。らせん形を描いている。輪を描いているのかもしれない。好きなように進むがよい。自分はその道を行こう。(p.103)
みずからこの生活を生き、みずからを生活で汚し、みずから罪を背負いこみ、みずからにがい汁を飲み、みずから自分の道を見いだすことに対し、いかなる父が、いかなる師が彼を守りえたろうか。この道がだれかに免除される、とおん身は信じるか。おん身がむすこを愛するからといって、子どものために悩みと苦痛と失望を免除してやりたいと願うからといって、そうしてやれると思うか。たとえおん身が十度彼のために死んだとしても、それで彼の運命のいちばん小さい部分でさえ、取り除いてやることはできないだろう。(p.128)
さぐり求めると、その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。(p.146)
物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。(p.154)
時間が存在するかどうかを知らず、この観察が続いたのが一秒であったか、百年であったか知らず、シッダールタなるもの、ゴータマなるものが存在するのかどうか、我となんじが存在するのかどうかも知らず。(p.158)