1Q84


1Q84 BOOK1~2(村上春樹/新潮社)

読む前に想像していた感じと違い、抽象的で意味がつかみにくい小説ではなくて、かなりはっきりとした筋があって、その示唆しているところも明示的な小説だと思った。読んでいて、文章がとても気持ちよかった。
この作品については、おそらく、この先多くの研究家や有識者と呼ばれる人たちによって、解体されて無数の批評が加えられることになるのだろうけれど、そういう分析的な観点をまったく無しにしたとしても、単純に、読みやすくて面白い話しだと思う。
ジョージ・オーウェルの小説で描かれた1984年とは異なり、現実の1984年には「ビッグ・ブラザー」のようなわかりやすいアイコンは登場しなかった。しかし、それと対をなすような形で「リトル・ピープル」という存在が、はっきりとは見えにくい形で人々の間には潜んでいる。この「1Q84」というタイトルが示す本当の意味は、物語のだいぶ後になって明らかになってくる。
青豆という、女性の主人公のキャラクターは結構すごいと思った。顔をしかめると極端に人相が変わるとか、人体の筋肉への徹底的なこだわりとか。そのエキセントリックさには、何箇所か笑った。
それとは対照的に、男性の主人公には、多少風変わりなところはあったとしても、根本にはちゃんとした生活の雰囲気があるというところが、なんだかホッとする。この、まったく無関係に見える二人の人生が、少しずつ少しずつ重なっていくところがいい。
物語の中に、もう一つの物語が登場して、「文章を書く」ということが一つのテーマになっているというのは面白かった。
「人が文章を書いている時、文章を書いているのは誰なのか?」ということは、とても興味深いテーマだったし、それをさらに一般的な概念へと広げて「自分の人生を生きていると思っている時、そのように生かしているのは誰なのか?」という問題提起には、ものすごく強烈なインパクトがあった。
サイエンス・フィクションのような現実離れした場面もいろいろとあるけれど、その乖離の度合いというのは、人類の口承や神話が民族を超えて共通に持つ、無意識の領域が紡ぐ物語と同じ程度の、現実からのズレなんじゃないかと思った。
こういう普遍性を、日常生活の出来事に溶かし込むように、感覚的にスッと入りやすい形で表現出来るというのは、本当にすごいことだと思う。
【名言】
彼女の半分はとびっきりクールに死者の首筋を押さえ続けている。しかし彼女のあと半分はひどく怯えている。何もかも放り出して、すぐにでもこの部屋から逃げ出してしまいたいと思っている。私はここにいるが、同時にここにいない。私は同時に二つの場所にいる。アインシュタインの定理には反しているが、しかたない。それが殺人者の禅なのだ。(1巻p.74)
「数学というのは水の流れのようなものなんだ。水が高いところから低いところに向かって最短距離で流れるのと同じで、数字の流れもひとつしかない。じっと見ていると、その道筋は自ずから見えてくる。君はただじっと見ているだけでいいんだ。意識を集中して目をこらしていれば、向こうから全部明らかにしてくれる。そんなに親切に僕を扱ってくれるのは、この広い世界に数学のほかにはない。」(1巻p.89)
何であれ、目の前に自分が所有するものが溜まっていくことが彼女には苦痛だった。どこかの店で何かを買うたびに罪悪感を感じた。こんなものは本当は必要ないんだと思う。クローゼットの中の小奇麗な衣服や靴を見ると胸が痛み、息苦しくなった。そのような自由で豊かな光景は、逆説的にではあるけれど、何も与えられなかった不自由で貧しい子供時代を、青豆に思い出させた。(1巻p.329)
「あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんてもらいたくないという心情も理解できます。しかし混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなものを抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを、気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎ止めておく必要があります。」(1巻p.330)
「メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ。」(1巻p.344)
「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。
「待ちきれない」とどこかで誰かが言った。(1巻p.353)
「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同じことなんだ。それは犯罪だ。僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合わせて作り上げられている。その二つは密接に絡みあっている。そして歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる。」(1巻p.459)
爪を見ていると、自分という存在がほんの束の間の、危ういものでしかないという思いが強くなった。爪のかたちひとつとっても、自分で決めたものではない。誰かが勝手に決めて、私はそれを黙って受領したに過ぎない。好むと好まざるとにかかわらず。いったい誰が私の爪のかたちをこんな風にしようと決めたのだろう。(1巻p.484)
人は脳の拡大によって、時間性という観念を獲得できたわけだが、同時に、それを変更調整していく方法をも身につけたのだ。人は時間を休みなく消費しながら、それと並行して、意識によって調整を受けた時間を休みなく再生産していく。並大抵の作業ではない。脳が身体の総エネルギーの40パーセントを消費すると言われるのも無理はない。(1巻p.491)
ディッケンズのロンドンを照らす月。そこを徘徊するインセインな人々とルナティックな人々。彼らは似たような帽子をかぶり、似たような髭をはやしている。どこで違いを見分ければいいのだろう?(1巻p.554)
「チェーホフがこう言っている。物語の中に銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と。」(2巻p.33)
「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」(2巻p.181)
ドアのノブに手をかけて、最後に振り返ったとき、父親の目から一筋の涙がこぼれていることを知って、天吾は驚いた。天井の蛍光灯の照明を受けて、それは鈍い銀色に光った。父親はおそらく、わずかに残された感情のすべての力を振り絞ってその涙を流したのだ。(2巻p.204)
真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する。(2巻p.234)
「すべての恩寵がそうであるように、人は受け取ったギフトの代価をどこかで払わなくてはならない」
「そんな風に考えたことはありません。私はただ学習し、自己訓練を積んで、技術を手に入れただけです。誰かから与えられたものではありません。」
「論議をするつもりはない。しかし覚えておいたほうがいい。神は与え、神は奪う。あなたが与えられたことを知らずとも、神は与えたことをしっかり覚えている。彼らは何も忘れない。与えられた才能をできるだけ大事に使うことだ。」(2巻p.237)
フェイ・ダナウェイならおそらく、ここで細身の煙草をとり出して、その先端にライターでクールに火をつけるところだろう。優雅に目を細めて。しかし青豆は煙草を吸わないし、煙草もライターも持ち合わせていなかった。彼女のバッグの中にあるのはレモン味の咳止めドロップくらいだ。それにプラス、鋼鉄製の九ミリ自動拳銃と、これまで何人かの男たちの首の後ろに打ち込まれてきた特製のアイスピック。どちらも煙草よりいくぶん致死的かもしれない。(2巻p.470)
でも今ここでそんな話しを持ち出しても仕方ないだろうという気がした。空に月がいくつあろうが、父親にとってはもうどうでもいいことだ。それは天吾がこれから一人で対処していかなくてはならない問題だ。
それにこの世界に月が一個しかなくても、二個あっても、三個あっても、結局のところ天吾という人間はたった一人しかいない。そこにどんな違いがあるだろう。どこにいたって、天吾は天吾でしかない。固有の問題を抱え、固有の資質をもった、一人の人間に過ぎない。そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。(2巻p.491)
【素晴らしいと思った比喩】
前もなく後ろもない。大きな洪水に見舞われた街の尖塔のように、その記憶はただひとつ孤立し、濁った水面に頭を突き出している。(1巻p.30)
それは風のない午後の焚き火の煙みたいに、誰の目にも明らかに見て取れる。(1巻p.40)
その針先は容赦のない観念のように鋭く冷たく尖っていた。(1巻p.302)
揃っていないピースを渡されて、ジグソー・パズルを組み立てているようなものだ。(1巻p.505)
大きな頭頂部は不自然なほど扁平に禿げあがっており、まわりがいびつだった。その扁平さは、狭い戦略的な丘のてっぺんに作られた軍用ヘリポートを思い起こさせた。(2巻p.40)
もしそこに牛河のような異様な風体の人物がいたら、見逃すわけはない。砂糖壷の中のむかでのように目立つはずだ。(2巻p.46)
とてもシステマチックだ。ダブルプレーをとることを生き甲斐にしている二塁手と遊撃手のコンビのように。(2巻p.148)
二年の歳月が彼の身体から多くのものを持ち去っていった。まるで収税吏が、貧しい家から情け容赦もなく家財道具を奪っていくみたいに。(2巻p.172)
父親はやはり何も言わず、外の風景を眺め続けていた。遠くの丘に蛮族ののろしが上がるのを見逃すまいとしている警備兵のように。(2巻p.203)
ソーシャルブックシェルフ「リーブル」の読書日記