自殺論

自殺論 (中公文庫)
自殺論(デュルケーム/中央公論社)

この「自殺論」は、フランス人のデュルケームによって19世紀の終わりに書かれたもので、内容はけっこう古い。
社会学というのは、物理や生物のような自然科学とは別のもので、実験によるデータの採取が難しい学問ではあるけれども、統計情報の数字を素材にすることで、自然科学と同じように理論的な分析をしていくことが可能なのだということが、デュルケームの緻密で隙のない論理の展開を見るとよくわかる。
自殺率の数字は、離婚率や、信仰している宗教や、住んでいる地域とどの程度の関連があるのか。その一つ一つを、主観的な思い込みを一切排除して、淡々とシステマチックに解析していく。その結果浮かび上がるのが、その個人が属している社会への関わり度合いと、自殺率との深い相関関係だ。
生物を細かく分けていくと、細胞の集まりということになるけれども、細胞一つだけをとってみると、それは生物とは言えない、別のものになる。それと同じことが、社会と個人との関係においても言える。
自殺というのは、極めて個人的な行為に見えながら、しかし、それを発生させている根本的かつ最大の要因として、個人の意思を超えた「社会」という存在があることを、デュルケームは論証によって浮かび上がらせた。
文章自体も、訳文にありがちな意味不明なところがなく、日本語として自然できれいな文章で、とても読みやすかった。前半はほとんどデータの提示に費やされていて、退屈なのだけれど、後半はそこから導きだされる意味の考察になり、一気に面白くなってくる。
一つ一つ仮説を立ててはそれらに対して、客観的に丁寧に考察を繰り返していきながら、反論の余地のない結論を導きだすという、見事な構成だった。説得力のある文章というのは、こういうものなのだと思った。人文科学分野での論文を書くときの、とても良い参考になると思う。
家庭や宗教といった社会組織は、自殺を抑止する効果が確かにあるが、そのつながりが弱くなっている状態では、それに代わる組織として、職業集団が有効であるという提言がされている。
戦後日本の、会社を中心とした社会はまさにそれを体現していたけれど、ここで言われている自殺抑止効果のあるような、安定した価値観を個人に与える組織には育たなかった。今のこの状況をデュルケームが見たらいったいどんな感想を持つのか、興味があるところだ。


肝心なことは、もともと教義や儀式は、自殺を抑止するにたりる強力な集合的生活をはぐくむような性質をもっているということである。そして、プロテスタントの教会が、他の教会ほど自殺の抑止作用をもたない理由は、それが他の教会ほどこの緊密性をもっていないことにもとめられる(p.197)
個人は、社会的環境からあまりにも自由になりすぎているこの瞬間ですら、なおこのように社会的環境の影響のもとにある。各人がいかに個人化されようとも、依然かれらのなかには集合的ななにものかがのこっていて、それが、この常軌を逸した個人化から生じる鎖沈あるいは憂鬱としてあらわれる。要するに、人びとはほかに共有するものがなくなると、最後に悲しみの心を共有するようになる。(p.256)
貧しい国々が自殺にたいして一種特別な免疫をもっているという事実がある。貧困が自殺を抑止する-じつは、それは貧困がそれ自体で自殺の一つの歯止めをなしているからなのだ。(p.312)
すべての人間は死を迎える。すべての生物は消滅せざるをえないようにつくられている。ところが、自殺をする者はごくかぎられている。大多数の人間においては、自殺をうながすような理由はつゆ存在しない。にもかかわらず、自殺率は、一般死亡率よりなおはるかに一定した水準を保っている。(p.380)
各社会には一朝一夕には変化しえないような気質があり、集団の道徳的構造が自殺傾向の生じる基盤となっているので、自殺傾向が集団ごとに異なっていることも、各集団のなかでは自殺傾向が長期にわたってかなり一定していることも、当然のことだからである。(p.383)
形態は異なっていても、われわれの知るかぎりの社会には多かれ少なかれ犯罪が起こっている。その道徳が日々蹂躙されていないような国民は存在しない。それゆえ、犯罪は必然的なものであって、存在しないわけにはいかないし、われわれの知るかぎり、社会組織をかたちづくる根本的条件は、当然のこととして犯罪をふくんでいるといわなければならない。したがって、犯罪は正常なものである。(p.460)

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